平和都市ヒロシマの裏側

 

 この夏は広島にどっぷり浸かっていた。というのも、8月の平和記念式典の前にも、7月末に開催された「2020核廃絶広島会議」(「平和市長会議」)に出席していたのだ。これにも実は肩透かしの(というと品格が疑われそうだが)、がっくり肩を落す裏話がある。以前お伝えしたスペインはカナリア諸島のテルデ市から、サンチアゴ市長をお呼びしていた。市長も来日を楽しみにしていらした。ところが直前にドクターストップがかかってしまった。つまりドタキャン(またしても品格が…)である。仕方なくもともと付き添いで参加登録してあった我々日本人(「シロタ家の20世紀」上映委員会メンバー)は、市長の回復を祈りながら、テルデ市の代表として列席したというわけだ。

 そんなこんなで、私がこの夏見詰めた広島は、表の顔、平和都市だった。しかし考えてみたら、広島湾にはかつて軍港として栄えた宇品港(現広島港)を中心に、西に米軍岩国基地、東に海上自衛隊の呉基地がある。広島は平和の町であると同時に、それとは裏腹の、軍事基地の町でもあったのだ。そしてそこには当然のことながら事故や事件がつきまとう。沖縄と同じである。

 つい先日聞かされたのだが、丁度3年前の初秋、岩国基地の米兵4人による集団レイプ事件が起こった。そして被害者が訴えたにもかかわらず、結局米兵は日本の警察に逮捕もされず検察から起訴もされなかった。米軍の軍法会議でも罪に問われなかった。一つには安保条約に基づく地位協定で、日本人の人権よりも米軍兵士の人権の方がより厚く守られているせいである。もしかすると、推測だが、米側の顔色を窺う広島地検の怯懦が与っていたかも知れない。

もう一つの理由は、レイプ事件だからである。女が誘い込んだのではないか、と男は考えがちだ。この事件も当時の県知事が「朝の3時頃まで盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども…」と発言、社会の中に凄まじい被害女性バッシングが起きたという。そんな空気の中でいつの間にか事件の本質がぼやけ、地位協定の問題も忘れ去られ、気がつくと犯罪者は、まるで事件などなかったかのように大手を振って深夜の盛り場を闊歩している…。
 しかし次なる被害者を生まないためには、女性が品行を改めさえすればいいのだろうか。

確かに深夜の3時に盛り場をうろついていたと聞けば、私だってついつい「女も悪い」と思ってしまう。しかし被害女性は「レイプされた」と涙ながらに訴えたのだ。集団の米兵とセックスを楽しんだのではない。彼女の人権は重んじられてしかるべきである。米兵だけが寛大に扱われ、被害女性が泣き寝入りさせられるのはやはりおかしい。
 平和の象徴ヒロシマは、そんな問題を抱える都市だった。日本の縮図だった。


2010夏・記憶に残ったドキュメンタリー

 

 8月が終わった。テレビの戦争特集もほぼ終わったようだが、今年も質量ともにNHKが圧倒した印象だ。証言記録、玉砕の隠された真実をあぶりだすドキュメンタリー、少年を煽り立て戦地に送った教師の責任を考えさせたドラマ、戦中戦後のラジオ放送に焦点を当て、言論の自由を問うた番組、などなど。その中で見終わって深い溜息が出た番組があった。8日に放送されたNHKスペシャル「引き裂かれた歳月〜証言記録 シベリア抑留」である。半月以上前のことだったが、胸底に沈んだ錘は未だにそのときのままの重さで残っている。80代90代の抑留体験者が、胸に秘めていた辛い思いをようやく語り始めた。語るまでに60年以上の歳月が必要だったのだ。それほど重く残酷な記憶だったということだ。

 シベリア抑留者の間で民主化闘争が起こり、軍隊時代のヒエラルキーに準じた待遇がひっくり返された。その闘争はエスカレートし、アクチブと呼ばれた積極派がラーゲリを牛耳った。アクチブは日本へ帰国後も赤旗を振った。私の知識はその程度で終わっていた。しかし実際は想像以上に深刻だった。人間破壊をきたすほどの陰湿な様相を呈していた。自殺者も出たという。シベリア抑留といえば、酷寒の地で科された重労働に、乏しい食料、などとどうしても肉体的苦痛の方に想像力は偏るが、もっと辛かったのは、密告や裏切りが横行した日本人抑留者社会だった。逃げようもない閉じられた空間で、不信と憎しみに満ちた空気を吸って、人々はやっとの思いで生きていた。

番組は冒頭で、日本人抑留者たちからスターリンに贈られた、布地に絹糸で刺繍された感謝状を見せる。アクチブがスターリンの吹く笛に踊らされていた証だ。そしてそんな醒めた自覚はなく、我先にと忠誠心を競い合った結果とも受け取れる。何と悲しい人間の性だろうか。

「帰国」という人参を鼻先にぶら下げられ、否応なく大勢に同調した多くの元抑留者たち。社会主義思想に共鳴し、積極的に思想教育に協力したという証言者は、「洗脳教育に加担した恥じらい、責任は今も感じている」「申し訳なかった」と当時の仲間に謝罪。何かを口実に反動と極め付けられ、「吊るし上げ」られた抑留者は、「勘弁してな」と深夜こっそり謝りに来た仲間に、「わしの名前を利用して、吊るし上げして、(自分は)一日も早く日本へ帰れ」と逆に励ました。彼は11年間の抑留に耐え最後に帰国したが、吊るし上げのトラウマを抱え、他人と喋るのが怖かったという。追い討ちをかけたのが、日本の公安警察による、帰国者への監視体制だった。苦労の挙句帰国しても、「アカ」というレッテルを貼られ、就職も儘ならなかった。戦争と国家の都合に翻弄された元抑留者たちは口々に言った。「辛かった」「思い出すとぞっとする」。未だに生々しい感情の吐露だった。人は極限状態の中で何ができるだろうか。自分ならどうしただろう。「生きて帰国する」ために他人を平気で裏切ることができただろうか。命をかけても自己の尊厳を保つ勇気が持てただろうか。そんな問いを突きつけられた気がした。それにしても、対立を煽り、人の心を弄んだ権力の残忍さは、肝に銘じておいた方がいいだろう。

ナレーションはこう括る。「天皇の軍隊からスターリンの社会主義へ、激しい振幅の中に投げ込まれ引き裂かれた抑留者たち」と。しかし怖いのは、何ら葛藤もなく、忠誠を誓う相手を替えられる変わり身の早さと、何の抵抗もなく大勢に順応できる人間のずるさかも知れない。


2010夏・ヒロシマ・ナガサキ(3)

 長崎の平和祈念式典では田上市長の平和宣言に感銘を受けた。平和宣言は被爆者を含む委員会で起草したと後で知ったが、言葉を飾らない市長の率直な物言いがストレートに胸に響いた。翌日の新聞かインターネットで是非その内容を確認していただきたい。オバマ大統領のプラハ演説をきっかけに、ようやく真っ当な主張が日の目を見られるようになった。英米仏もヒロシマナガサキを無視できなくなった。日本政府も唯一の被爆国の原点に立ち返って、核廃絶の旗振り役を、もっと素直に、もっと強く突き進むべきではないか。現実に迎合して「核抑止力」など云々する前に、あるべき姿、理想を主張し続けて欲しいと切に願う。政府に願うだけではなく、自分自身にも言い聞かせる必要がある。「核抑止力」という考えに与したことはないが、ともすれば「理想は迂遠」と絶望しかけ、生真面目な主張を諦めかけてしまう。そんな自分も戒めなければならない。

 式典が終わるやいなや驟雨に見舞われたが、そのまま永井隆記念館に足を伸ばした。私にとって原爆の悲劇を知る第一歩が、子供の頃読んだ永井隆著「この子を残して」だった。親が本を買ってきたのだったか、教科書に掲載されていたのだったか。原爆症で寝たきりの父親のために、給食のお椀を、こぼさないように摺り足でそろりそろりと持ち帰った幼い小学生のお嬢さん、茅乃さんのエピソードは、その挿絵まで覚えている。ところがそのお椀に何が入っていたのか、それは記憶に残っていなかった。今回記念館で改めて購入した文庫でわかった。パインジュースだった。戦後には珍しい貴重な飲料だったはずだ。だから父に飲ませたいと思ったのだろう。

ところで、永井博士の「原爆は神の摂理」という言葉が論争を呼び、強い批判に曝されたことはご存知だろうか。原爆投下を容認したという批判だ。あの惨劇の渦中で被爆者救援に命を削り、妻まで失った博士が、原爆を容認するなんてまさかと思う。それに私は博士の著書から充分に、原爆への怒りや悲しみ、反戦のメッセージを受け取った。信仰を持たない身にどこまでわかるか心もとないが、被爆から間もない頃の慰霊祭で発せられたというあの言葉は、恐らく、キリストの受難をわが身に重ねて、この現世の苦しみから立ち直ろうと信者を励ます、信仰の言葉、神への祈りなのではないだろうか。キリストと同じ苦しみを味わっていると思えば、そこに特別の意味が付与されて苦しみも和らぎ、信者の連帯感は強まり、絶望感からも少しは救われるかも知れないのだ。もし俗世の言葉で批判するなら、言葉尻ではなく、そういう発想をするカトリックそのものを批判の対象にするべきではなかっただろうか。

8月の長崎は何時にも増して暑かった。原爆の記憶のせいだけでなく、大河ドラマの影響だ。龍馬にゆかりの亀山社中、グラバー園、出島など、江戸や幕末を偲ばせる史跡はどこも解りやすく整備され、観光客で賑わっていた。グラバー園を巡るための長いエスカレーターや動く歩道、斜面を下るエレベーターなどには度肝を抜かれた。もちろん当時はなかったものだ。

 


2010夏・ヒロシマ・ナガサキ(2)

 平和公園に向かう平和大通りの街路樹で「シャンシャンシャンシャンシャン」とクマゼミの大合唱。これぞ広島の夏。東京では浴びられない声のシャワー、蝉時雨である。
 すでに朝7時過ぎに、平和記念式典会場は人でいっぱいだった。私たちは何とか大テントの下の一般席にもぐりこんだ。65年目で初めて参加した核保有国米英仏の代表、潘基文国連事務総長、政府の要人たち。彼らの席ははるかな前方、剥き出しの強い日差しの下にある。太陽の数千倍という凄まじい熱エネルギーを浴び、一瞬のうちに命を落とした原爆犠牲者を思えば、不謹慎この上ないことではあるが、一般人でよかったと胸を撫で下ろす猛暑の中の式典となった。
 秋葉市長の平和宣言には、日本の核の傘からの離脱と非核三原則の法制化を求める明確な主張が盛り込まれ、潘国連事務総長の挨拶は、核廃絶の気運に希望を託し、そのための具体的なタイムテーブルに言及するなど、説得力と不退転の決意に溢れた力強い挨拶だった。後で知ったことだが、NHKの式典中継は事務総長の挨拶を待たず打ち切られたとか。日頃権威を重んじているように思えるNHKが、なぜ国連事務総長の挨拶をカットしたのだろうか。もともと時間枠が限られていて泣く泣く諦めたのだろうか、それとも視聴者は聞きたがっていないと判断したのだろうか。どちらにしろ、グローバル・ゼロ(核なき世界)への展望を共有しそこなった視聴者こそ、不幸だったというべきだろう。
 ところで、わが日本国政府代表、菅首相の挨拶について、どんな感想を述べればいいだろうか。核廃絶の実現に、唯一の被爆国として道義的責任があると言い、非核三原則の堅持を誓ったものの、その後の記者会見でしれっとして核抑止力の必要性に触れ、ヒロシマ・ナガサキの神経を逆撫でした。どんな哲学に基づいてその矛盾を矛盾のまま抱えていられるのだろうか。(続く)

2010夏・ヒロシマ・ナガサキ(1)

 この夏初めてヒロシマとナガサキの原爆忌に参列した。本当はマリア・デル・カルメン・ソーサ・サンタナさんという、スペイン女性と同行する予定だった。
 彼女は藤原智子監督のドキュメンタリー映画「シロタ家の20世紀」で日本に知られるようになった、スペイン自治領カナリア諸島テルデ市の人。映画は、レオ・シロタという日本に馴染みの深いピアニストの一族が辿った過酷な運命を中心軸に、戦争と人種差別の世紀、20世紀を静かに告発したドキュメンタリーで、2008年秋に岩波ホールで公開され、今でも各地で自主上映されている。私はこの映画にナレーターとして関わった。
 藤原監督は映画のラストで、ある風景を象徴的に取り上げ、それに人類の希望を託した。テルデ市の小さな公園「ヒロシマ・ナガサキ広場」に掲げられた、スペイン語の憲法9条だ。日本国憲法9条の条文がそのままスペイン語になって陶板に刻み込まれている。憲法9条はもはや日本人だけのものではなく、その精神こそが、人類が平和に生存できる一番確かな道に繋がる、と監督は訴えているのだ。
 この碑は1996年に建立された。映画の中でテルデ市のサンチアゴ市長はインタビューにこう答えている。80年代末に若き市議としてそれを発案し、市議会で決議するまで奔走したのは、マリア・デル・カルメン・ソーサ・サンタナという女性だった、と。
 私は去年2009年1月、カナリア諸島に飛び、彼女にインタビューすることができた。その映像は同月末、TBSの「ニュース23」ミニコーナーで取り上げられ、さらに8月、やはりTBS日曜深夜の「報道の魂」で、「海の彼方の憲法9条」というタイトルの番組になった。秋には雑誌『潮』に記事も書いた。どこかでお眼に留まっただろうか。
 今年になって、「シロタ家の20世紀」上映委員会から、マリア・デル・カルメンさんを8月の広島と長崎にご招待したい、と相談を持ちかけられた。私は現地の日本人青年Mさんを仲介に、メールで打診し、日程や旅程の希望を聞き、さまざまな可能性を探り、およそ7ヶ月交渉を重ねた。7月になって、最終的に彼女は辞退した。9条碑の代表なら市長の方が相応しいという謙虚な思い、同じ時期に現地で大事な役目が控えている、それが主な理由だった。
 原爆忌の時期の広島長崎はホテルがフル稼働になる。まとまった人数の場合2月に予約をとる必要があった。上映委員会では同行を希望していたマリアさんの2人の同僚分も含め、早々と複数の部屋を押さえていた。マリアさんの来日に備え、映画の上映も決まっていた。それは今更キャンセルできないことだった。マリアさんの代わりに藤原監督自身がトークに出演することになり、そこで藤原監督、上映委員会のメンバー、それにお誘いを受けた私が、2010夏の原爆忌に広島入りしたのである。(次回に続く)

かくも長き不在

 ホームページを開設し、ブログの手ほどきを受けてもう5ヶ月になる。そしてこれが2回目の書き込みだ。かくも長き不在の原因は?と自らに問いかけてみる。他に言い訳がないわけではないが、根が怠惰なせい、これが一番ぴったりと来る。それにしてもブログは難しい。個人的な呟きがいわば公に曝されるわけで(読んでくれる人がいればの話だが)、そのことに対する戸惑い、気後れ、恥ずかしさは、ページを埋める気力をついつい鈍らせる。  つい最近気がついたのだが、ある項目をインターネットで検索するとき、「ブログを除いて表示する」という選択肢ができていた。昔はなかった。そのためなかなか本命に突き当たらず、検索のたびに苛立ちばかり募らせていた。近頃のようなブログ花盛りの時勢に、そうでなくても膨大になる一方の情報の中から、せめてブログだけでも除外してもらえれば、必要な情報を早く得られるし、またブログを持つ身の罪の意識が多少軽減される。  そういうわけで、これからは遠慮せず、なるべく怠けず、ブログを綴ってみようと思う。

米原万里さんの新刊

  数々の文学賞に輝いた作家、米原万里さんが亡くなって間もなく4年になる。今週、文藝春秋から万里さんの最新の文庫本が刊行された。愛犬愛猫との生活ぶりを中心に綴った『終生ヒトのオスは飼わず』である。晩年の4年間親しくしていただいたご縁で、「あとがき」に思い出を書かせていただいた。ペットに向き合う素直で一生懸命な万里さんが懐かしく、ユーモアに溢れた文章にさえ、涙を禁じ得なかった。亡くなってからも次々に新しい単行本や文庫本が出ていて、ファンの多さにも改めて感じ入った。
 今月末から5月9日まで、千葉県市川市の芳澤ガーデンギャラリーで「米原万里展」も開かれる。もちろん足を運ぶつもりだ。米原ワールドの秘密に触れることができそうだ。


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