2012年1月のfacebookから(5)

昨夜、『深沢七郎外伝〜淋しいって痛快なんだ』(潮出版社)を出​した新海均さんの出版を祝う会に参加。新海さんは光文社の編集者​として深沢七郎とは生前も死後も深い関わりを持った方。今日昼か​ら読み始めたら止まらなくなって、内外のすべての用事を先送り。​明日の読書会用の読書も省略。面白かった。深沢七郎は映画になっ​た『楢山節考』と、嶋中事件を起こした「風流夢譚」を読んでいた​だけ。何も知らなかったと実感。川端康成賞を辞退、谷崎潤一郎賞​は素直に受賞したその理由や、受賞パーティで「命がけのやくざ踊​り」を披露したくだりには胸が熱くなった。放浪したり農場を開い​て気ままに生きているヒッピーおじさんという印象があったが、深​沢七郎は何をしていても、ぶれることのない骨太の人間だった。著​者は終章でこう書いている。「人間の本能を見据えた文学は、災禍​を乗り越えて生きてゆく人たちの胸に火を灯す言霊に溢れているこ​とを信じてやまない。」深沢七郎を今年の読書目標に加えようと思​う。

2012年1月のfacebookから(4)

「報道の魂」は、TBS系列の記者たちが、普段のニュースでは伝​えきれないものを伝えたいと、思いをこめて作るドキュメンタリー​番組です。放送は月に2回だけ。今夜はTBS報道局社会部の伊東​康記者の作品。「ALS」という体の自由が奪われていく難病と闘​いながら、常に記者として何が伝えられるか問いかけ続けている、​山陰放送谷田人司記者の2年間を追ったドキュメンタリーです。1​時20分という深ーい時間ですが、まだお休みでない方は是非。な​お、「報魂(ほうたま)」は去年6月に放送された「3・11大震​災 記者たちの眼差し」で、アジアテレビジョン賞最優秀作品賞と​文化庁芸術祭テレビドキュメンタリー部門優秀賞を受賞しました。​関係者の皆様にお祝い申し上げるとともに、私自身、一「報魂」フ​ァンとしてうれしい限りです。 www.tbs.co.jp/houtama/

2012年1月のfacebookから(3)

 一昨日のことで恐縮だが、詩人、薦田愛さんの自作詩朗読会を聴き​に行った。詩人の天童大人さんが、「肉聲の復権を目指す」という​志を立て、2006年からプロデュースしてきた「詩人の聲」の、​本年一回目のイベントだ。薦田愛さんは第一回歴程新鋭賞に輝いた​詩人。イメージ豊かな言葉を紡いで、ちょっとシュールな世界に読​む者を導いてくれる。『流離縁起』や『苧環論』などの詩集がある​。薦田さんの澄んだ声音と緩急自在なリズムを心地よく聴きながら​、かつて感銘を受けた声の力を思い出した。日本のある詩人グルー​プと、中国西域の詩人たちが、天山山脈ボゴダ峰の中腹、海抜1,​980辰慮个里曚箸蠅如⊆作詩朗読の競演会を開いた。私はたま​たまそこに居合わせた。見事だったのは中国詩人たちの声だった。​感情のこもった声は湖畔の空に朗々と響き、中国語の声調が生み出​す独特の抑揚も不思議なことに私の生理に逆らわず、プロミネンス​も多彩だった。もちろん言葉の意味はまるでわからない。にもかかわらず、そこに生まれ​る劇的空間が心を強く引き付けるのだ。文字を追うこととは違う何​か。それこそ「肉聲」の魅力ではないだろうか。何もわからないの​に人間としてすべてがわかるような、妙な共感が生まれるのだ。そ​こに参加した日本の詩人たちとは何が違ったのだろうか。漢詩の国​では今も日常的に詩の朗誦などが行われていて、だから声が鍛えら​れ、声だけで人を魅了できたのだろうか。日常の中の詩の朗誦とい​えば、その伝統はやはりヨーロッパだろうか。ちょっと唐突だが、​エヴゲーニヤ・ギンズブルグの『明るい夜 暗い昼』を思い出す。​スターリン時代に逮捕され、18年間を監獄と強制収容所で送った​一人の知識人女性の、まさに極限状況の日々を描いた自伝だが、ソ​ルジェニーツィンが『収容所群島』の下敷きにしたと言われている​。ギンズブルグはどのようにして自己を励まし、どこから生きる力​を得ていたのか。自伝によると、それが何と詩の朗誦なのだ。見回​りの足音が遠ざかる度に、彼女はプーシキンやネクラーソフを暗誦​し、果ては即興で詩を作り、自分のために読んで聞かせた。そうや​って生きる意欲を掻き立て、また多くの収容所仲間を絶望から救っ​たという。文化の違いはあったとしても、詩と声の力は捨てたもの​ではないはずだ。「詩人の聲」の試みが何かを生むことを期待した​い。

2012年1月のfacebook(2)

 たまには心を揺り動かされるのもいいものだ。10日夜、カルロス​・サウラ監督の映画「フラメンコ・フラメンコ」の試写を楽しんだ​。21あるシーンの冒頭でいきなりガルシア・ロルカの詩が歌われ​、フラメンコが踊りだけの芸能ではないと知らされる。体いっぱい​、細胞の隅々まで溜め込んだ感情が、器から溢れる水のように迸り​、魂の奥底から響いてくる歌となりギターの音色となり踊りとなる​。フラメンコは、スペインはアンダルシア地方のそんな民俗芸能だ​。90年代の終わりの頃、カリスマダンサーと言われたホアキン・​コルテスが来日して、初めて本場のフラメンコを鑑賞した。そのと​き、観終わって席を立てないほど体の奥から何かが揺り動かされた​。武装を解いた、プリミティブな感情世界に圧倒されたのだろう。​人間は小利口でスマートになり過ぎた、とも思った。映画にホアキ​ン・コルテスは出演していないが、登場するのは現代を代表する一​流のアーチストたちばかりだという。「フラメンコの真髄に迫る」​と宣伝コピーにある。

2012年1月のfacebook(1)

  平凡な三が日を過ごした。お雑煮とおせち(らしきもの)を食べ、​近くの深川不動に詣で、賀状をうれしく読み、思いがけない方から​のものには非礼を詫びる言葉を添えて返信し、録りだめたテレビ番​組を整理して、残すべきはDVDかBDにコピーした。こんな静か​で密やかなお正月は久しぶりだ。そういえば今年は賀状が減ってい​る。私も新たなところは遠慮した。やはり頭のどこかに、後ろめた​さという感覚があるのだろうか。昨年は自然災害の恐ろしさを嫌と​いうほど思い知らされた。でも今や我々は、それが「想定外」の災​厄ではなかったことを知っている。わかったことは、「想定」され​「警告」されていたのに、それが意図的に無視されて来た、という​未必の故意だ。なぜあれほど多くの犠牲を払わなければならなかっ​たのか。静かな怒りを教えてくれる番組が、今日深夜に再放送され​る。25時からのEテレ「ETV特集選 埋もれた警告」だ。昨年​放送された震災関係の番組の中で一番に押したいものだった。なぜ​もっと多くの注目が集まる、総合の「NHKスペシャル」枠でやら​なかったのだろう。静かな怒りの種は尽きない。

[仕事納め]昨年のFacebookより

 

金正日が遂に死去! 外出できずテレビに釘付け。誰が後継者になろうが、余裕なく生きる一般国民には関心が薄い、というコメンテーターの言が耳に残った。国家はほどなく混乱するだろうか。「生きたい」脱北者の集団が、難民となって国境を越える事態に至るだろうか。とにかく目が離せなくなる。(12/19)

 

今年の紀伊国屋演劇賞個人賞にトラッシュマスターズの作演出家、中津留章仁さんが選ばれた。対象になった芝居は「黄色い叫び」(4月)と「背水の孤島」(9月)。幸い2本とも観たが、ともに3・11大震災の、前者は主に自然災害を、後者は主に原発事故を踏まえて、人間の実相をリアルな目で見つめた素晴らしい舞台だった。共感と笑いの心地よさだけでなく、自然災害と地方都市、これからのエネルギー政策など、深く考えさせられた。それにしても、3・11からほぼ1ヵ月後に「黄色い叫び」は上演された。稽古に最低1ヵ月は要するので、もの凄い集中力で脚本が書かれ、役者は役を自分のものにしたことになる。客席たかだか50から100程度の小劇場が今元気である。そして中津留章仁は追っかけ甲斐がある演劇人である。(12/22)

 

信仰は持てないでいるが、讃美歌は耳に心地よい。無意識下に「根源悪」の感覚があって、それが浄められる心地というわけだろうか。今夜は友人たちと東京丸の内OAZOのアトリウムコンサートを聴きに行った。友人が贔屓にしている(追っかけている)カウンターテナーの上杉清仁など、まさに天上の歌声に確かに癒された。(12/22)

 

多寡を問わず何らかの対価をいただくことが仕事だとすると、昨日が今年の仕事納め。小さなグループに朗読を教える仕事。現在、サン=テグジュペリ「星の王子さま」と石牟礼道子「苦海浄土」のそれぞれ一節を読んでいる。対照的な作品にみられるが、私には共通点が痛いほど迫ってくる。人間世界や自然世界への理想を語る強い意思だ。「星の王子さま」はまさにそれ故に永遠の愛読書と思う方が多いだろう。「苦海浄土」も、苦界を語ることで対極の理想世界を炙り出していることに気づかされる。朗読は結果として同じ文章を何度も読み、その都度新しい発見があり、生徒にも講師にも面白い。さて、今日から年末恒例の雑用に追いまくられる。(12/24)

  ・宇野 淑子

新たに友達登録して下さった石川友章先生は、西洋医学から東洋医学に宗旨替えした私の主治医です。中央区の八丁堀と高幡不動でクリニックを開いています。養生養生とあまり頻繁にのたまわるので、「究極の養生は永遠の眠りですね」と皮肉って苛めています。「俺はやぶ医者じゃない、土手医者だ」と自称するので、私は信用しています。意味おわかりですよね?(12/27)


初めてのTVドキュメンタリー

 

 もう放送は終わったけれど(地域によってはまだ)、初めてテレビのドキュメンタリーを作った。1年ほど前から記録映像を録ってきた「狭山事件」に関するものだ。昨年の足利事件に続いて今年は布川事件で再審無罪が決まった。無期懲役以上の戦後の重要事件で、冤罪を訴えながらまだ再審に辿り着いていないものが何件もある。狭山事件はその代表だ。最高裁への上告が棄却された1977年8月の時点で、その判断に多くの人が首を傾げた。それから実に30年以上も何の進展もなかった。ところが、国民が刑事事件の裁判に関わることになった裁判員制度のスタートと同時に、狭山裁判も動き始めた。それまで隠されていた証拠が少しずつ開示されて来たからだ。「次は私の番〜動き出した『狭山裁判』」というタイトルで首都圏では11月6日深夜に放送した。

再審のためのキーワードは証拠開示だ。犯罪の証明となる証拠は、逆に無罪の証拠ともなる。これまで検察側は、国民の税金を使って集めた証拠を、自由自在に扱ってきた。開示するかどうかは検察側の裁量次第だった。被告が有利になる証拠を握りつぶして来たわけだ。それが出来にくくなったというだけでも裁判員制度は意味があったことになる。

それにしても、冤罪事件の裁判記録を読んでいると恐ろしくなる。誰もが、菅家利和さん(足利事件)、杉山卓男さん、桜井昌司さん(ともに布川事件)、石川一雄さん(狭山事件)にされかねない、という怖さだ。確かな証拠はなくても、推測や可能性で説明できれば、裁判官は人を罪に問えるとわかるからだ。残された「狭山事件」を、今改めて裁判員が裁けば、いったいどんな結論に至るだろうか。


[NHKに抗議]

 4月からNHKのBSが変わる。演劇フアンの私にとって困った変更は、演劇が、特に日本の芝居の舞台がほとんどなくなってしまうことだ。毎週の「ミッドナイトステージ館」教育テレビの「芸術劇場」での演劇、ハイビジョンで時に放送される演劇など、録画して楽しんでいた。そのためにBSに契約したようなものだった。NHKはなぜ演劇フアンを切り捨てるのか。先日、明確な理由を知りたいと問い合わせたら、返事が届いた。

 

「いつもNHKの番組やニュースをご視聴いただき、ありがとうございます。
お問い合わせの件についてご連絡いたします。

平成23年4月からNHKの衛星放送を3チャンネルからハイビジョン2チャンネルに再編するのを機に、地上波の総合テレビ、教育テレビとあわせたNHKのテレビ4チャンネルは、視聴者のみなさまによりわかりやすく魅力的な放送を目指して、それぞれの個性がさらに際立つような番組の開発や、チャンネル間の番組の再配置を進めています。

こうした考え方のもと、長時間にわたってお楽しみいただく劇場公演のうち、歌舞伎や能・狂言など古典芸能については教育テレビを中心に、クラシック音楽や内外の注目度の高い演劇等については、本物志向の教養・娯楽チャンネルと位置づけたBSプレミアムを中心に放送していく予定です。

今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。

NHKふれあいセンター(放送)」

 

 日本の演劇を切り捨てる明確な理由はどこにも書いていない。一つ解ったことは、NHKにとっての演劇は、日本の古典か内外の大舞台であって、いわゆる新劇や小劇場の舞台は視野の外、ということのようだ。我々が日常楽しむ芝居は、「よりわかりやすく魅力的」ではないし、「本物」の娯楽でもないと考えているのだ。
  昨今は久しぶりの演劇ブーム、しかも小劇場の活動は目覚しい。そんな中から、話題の舞台を取り上げ録画中継してもらえれば、どんなにNHKを有難いと思えることか。なぜなら、東京に住んでいても、安くはないチケット代をそうそう簡単に支出できるものでもないし、まして地方に住んでいる場合、舞台のために上京するなんておいそれとできるものでもない。

 皆さん、演劇フアンを切り捨てるNHKに、以下のサイトから抗議の声を届けて下さい!

  https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi

 

[山下菊二コラージュ展]

 冬晴れの一日、鎌倉へ足を延ばし、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開かれている「山下菊二コラージュ展」を覘いてきた。覘くというより実はじっくりと味わってきたのである。出品されている作品の殆どが、「戦争と狭山差別裁判」というシリーズのもので、1976年に制作されたという。

狭山裁判というのは、1963年5月に埼玉県狭山市で起きた女子高校生殺人事件、いわゆる狭山事件の裁判のことで、犯人とされた石川一雄さんは一審で死刑の判決を受け、さらに上訴審で無期懲役となり、その当時は最高裁に上告している頃だった。上告は翌年棄却され、結局石川さんは保釈されるまで31年7ヶ月を刑務所で送ることになった。そして今なお無実を叫び再審を求めて闘っている。狭山裁判はほぼ半世紀に及ぶ、只今進行中の長期裁判である。

山下菊二の作品は、16世紀ドイツの木版画や、広島長崎の原爆投下、ベトナム戦争やアフリカの民族紛争などの写真も使い、そこに狭山事件の石川さんの写真や供述、犯罪に使われた脅迫状などをコラージュ手法で配し、狭山裁判の本質をあぶり出している。狭山裁判については次回詳しく書くつもりだが、足利事件の菅家さんと同じ、強要された自白が証拠とされ、指紋など確かな物的証拠はなく、多くの人が冤罪事件と見ている。そもそも犯人探しが、狭山の被差別部落に絞って行われ、狭山事件は冤罪であるとともに差別事件としても知られている。狭山差別裁判といわれる所以だ。そいう社会の不条理をまっすぐ見詰める山下菊二のまなざしが、ぐっと胸に迫ってくる。どうぞ足をお運び下さい。3月27日まで開催されています。


李忠成選手

 

 この世はドッグイヤーズ? あっという間に年が暮れ、年が明け、暦は春を迎えた。人間の7倍の速さで駆け過ぎるといわれる犬界の時間の流れが、凝縮されてそのまま頭の中で走っている。もちろん再びの長き不在の言い訳にもならないが。

 ブログを再々開したい。

もう先月のことだ。サッカー・アジア杯で日本が優勝した。そして新しいヒーローが生れた。その名は李忠成。鄭大世など在日コリアンのサッカー選手は、国家代表で試合に臨む場合、自分の国籍に従う。鄭大世は北朝鮮だ。李忠成は日本を背負った。スポーツ界に暗い私は、日本優勝のニュースの中で「アレ?」と不思議に思った。ヒーローは「りただなり」選手と読まれていたからだ。どう見ても顔はコリアン。日本国籍を持つ在日4世だと紹介されて、ようやく半分納得できた。感動したのは次第に李選手のコメントが表に出始めてからだ。

「堂々と本名を名乗りながら、日本のために頑張る在日がいてもいい」彼は自分のスタンスをこう表明していた。彼は日本に生れ、日本文化の中で育ち、日本語しか喋れない。だとしたら、自分の生きる場はこの日本だと思い定め、国籍をとる覚悟を決めたのだろう。在日コリアンにとって、国籍はアイデンティティーの問題だ。奇しくも去年は日韓併合100年。かつての日本による植民地支配が、もともとの民族文化を蔑み否定し、固有の名前さえ奪うという苛烈なものだっただけに、解放後結果として日本に住み続けることになった在日コリアンは、民族の文化と名前、自身が所属する国家というものに拘った。祖国が南北に分断されたままという歴史の不幸が、そのまま在日を引き裂いた時代も長く続いたが、李忠成選手のような4世にとっては、国籍というものは一つのプラグマティックな所属先の選択、と言って言えそうである。1世2世の苦しみ悔しさも理解できるが、この4世の強かさに共感の拍手を送りたい。

 それにしても、「りただなり」とはどういうことなのか。なぜ「イチュンソン」ではいけないのか。日本では外国人の国籍取得を「帰化」という。非寛容の国らしい名称である。国籍取得で「イチュンソン」は却下されたのだろうか。本田選手が李選手を称えるコメントの中で「チュンソンが…」と言っていた。仲間を本当の本名で呼びかける本田選手にも感動した。



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